4月13日に、昨年11月14日以来の三陸鉄道宮古駅~釜石駅間の乗車。
朝の三陸鉄道の車窓は何か落ち着きます。夜が明ける冬の様子や、暖かい時の新緑など、車窓から見る木々や畑や田んぼ、山々や光る海は変わりません。
震災後宮古から釜石の間は列車がありませんでした。三陸鉄道が走っていないときには、路線バスの乗り継ぎでした。県北バスで道の駅やまだまで、県交通バスで釜石駅前経由の合同庁舎前までのみちのりです。山田町駅周辺や、四十八坂、波板海岸やホテルはま菊、吉里吉里夫人の吉里吉里バス停は結構人数乗車するし夏は海水浴の子供たち、抜けて安渡橋と大槌高校生徒さん、そして空き地に立ち始める住宅、廃墟となった旧大槌町役場庁舎と前に立つ地蔵様、整備された道と新しい大槌町駅前、大型ショッピングセンターマスト前、ここは釜石高校生徒さんを送り迎えする自家用車、釜石に入り広い空き地日本通運など物流企業の倉庫、そして鵜住居駅前、高台に向かう階段の上にそびえる鵜住居幼稚園・小学校・中学校一緒の敷地と校舎、鵜住居ラグビー場建設から完成など。
路線バスは、乗車するたびに道路・防潮堤の工事進捗や景色の移り変わり、街並みの変化を直接的に感じたのですが列車ではそうはいかなくなりました。
路線バスと列車でも変わらないのは乗降客の移り変わりです。
沿線の通学する学生、卒業してしまったのか見かけなくなった高校生や、新しく見かけることになった新入生など、他にも山田の病院実習でしょうか宮古から通う看護師学習中の方々など、始まりがあり終わりがある時の流れを感じるときです。
今は三陸鉄道の車窓。私に、生きいる幸せと感動を呼び起こしてくれます。
この時に感じる言葉があります。
「人間到る処青山あり(じんかん いたるところせいざんあり)」
この言葉は、大きな志を持って広い世間に出て行動すべきとのことです。
実は私は、本来の意味とは違う場面で思う言葉です。
20代後半北海道の札幌市に住んでいたころのことです。
冬の雪が積もった時期、夕方札幌から翌日の仕事がある帯広に向かった時のことです。
日勝峠を過ぎたあたり峠付近から帯広までの広い平野に出ると、明かりがついた家がポツンとあります。しばらくしてまたぽつんとあります。この明かりを見て思わず浮かんだ言葉が、「人間到る処青山あり(じんかん いたるところせいざんあり)」です。
岩手で生活していても不便なところにもかかわらず生計を立て生活している点在する家を車窓から見ることがあります。子供達には「人間到る処青山あり(じんかん いたるところせいざんあり)」です。親も、「己の人生、ここも青山」と感じます。
亡くなった父親が、大正生まれの徴兵もありジャワ・スマトラで兵役経験のあるのですが、「男児志を立てて郷関を出ず、学の若し成る無くんば復た還らじ」とともに良く使う言葉でした。多分学校で暗唱させられていたのかもしれません。
以下、「コトバンク」株式会社DIGITALIO及び株式会社C-POTが提供する用語解説サービスより引用。
骨を埋める場所は、どこにでもある。大望を実現するためには、故郷にこだわらず、広い世間に出て活動すべきである、ということ。
[使用例] ああ人生いたるところに青山ありだよ、男から佗びの手紙が来る[林芙美子*放浪記|1928~29]
[使用例] あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間到るところに青山があるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか[太宰治*竹青|1945]
[由来] 幕末の僧月性の詩「将に東遊せんとして壁に題す」の末尾の一句。周防(現在の山口県)に生まれた月性は、二七歳のとき、大阪の有名な漢学者、篠崎小竹のもとで勉強をすることになりました。その際、故郷を出るに当たって作ったのが、この漢詩。「男児志を立てて郷関を出ず、学の若し成る無くんば復た還らじ(男が決心して故郷を出るのだから、学問が身につかなかったら、帰っては来まい)」と決意を述べたあと、「骨を埋めるに何ぞ期せん墳墓の地、人間到る処青山有り(先祖代々の墓に葬ってもらおうなどと考えてはいない。世の中、どこに行っても墓地になる森はある)」と結んでいます。
[解説] ❶月性は、攘夷論者として活躍し、幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。そのため、明治以後、この漢詩は、立身を夢見て故郷を後にする青年の送別の席などでよく吟じられ、広く知られるようになりました。❷「人間」は、「人々の間」つまり「世の中」のこと。「にんげん」と読んでも間違いではありませんが、意味をはっきりさせるために「じんかん」と読む習慣があります。
以上
コメント