今日は地下鉄サリン事件が起きた日です。
老人の昔語り。
独り言です。

8時前に出勤していたら、サリンの被害者になっていたというお話です。
大阪支店から東京本社に戻り思うところあり下町に住んだ時のお話です。
母親7人姉妹が育った下町を、実は僕の新たな出発の地としました。
毎週月曜日は、朝、役員が集まってミーティングしていました。
当時は常務取締役企画・制作担当だったと思います。
勤務先は中央区築地で、
営団地下鉄(東京メトロ)日比谷線築地駅下車5分でした。

1995(平成7)年。
1月17日に阪神淡路大震災発生した年のことです。
3月20日(月)8時過ぎに地下鉄日比谷線中目黒行きに乗車。
北千住から築地駅に向かうが、入谷駅でがストップ。
白い煙が出ているとの車掌のアナウンス有り。なかなか動かず。
当時は携帯電話がほとんど普及していない時代。
ただ事ではない雰囲気を感じ改札を出て地上で「公衆電話」で勤務先に状況連絡してタクシーを拾う。
上野、御徒町、秋葉原、小伝馬町を過ぎ小伝馬町駅から人形町駅あたりで渋滞。
運転手さんに、もうこれ以上前に進めないとのことで徒歩で勤務先に向かう。
晴れたいい天気の日だったと思います。
八丁堀を抜けて新富町に入ると交通規制され異常な雰囲気になっている。
徒歩で築地駅前、蕎麦屋の角に到着すると築地本願寺の前の道路がたくさんの人が横たわっている。
救急車と手当や駅構内の対処をする防護服の方であふれ野戦病院状態。
後で知ったのですが消防庁、警察庁、自衛隊の出動があったそうです。
会議は中止となり、昼休み周りの様子を見に外に出る。
散歩コースの近くの隅田川沿いの明石町河岸公園(ここで川を見ているのが好きでした。)から

聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん: St. Luke’s International Hospital)に回ると、
サリンの被害を受けた方々がたくさん、そして次々と収容されている。
病院やスタッフは慌てふためくことなく整然とした対処をしている感じ。
当時は頼りになる、故日野原重明院長(葉っぱのフレディでも有名)。

上空をヘリコプターは複数飛ぶなど騒然とした日でした。
いつもの乗る車両降り口に近い一番前の車両に乗って、いつもの時間帯で通勤していたら危ないところでした。
そう言えば、その当時に合った築地本願寺側の角の蕎麦屋は無くなっていてファミリーマートになっていました。また築地本願寺の敷地内にある伝道会館にももう泊まれないようです。男一人出張には安くて助かったのですが。事務所向の日本料理屋は残っているようでした。
以上
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