(アイキャッチ写真)あさつき(浅葱)のヌタ。酢味噌で和えました。旨い、白ワインに合う。
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「インフルエンザ収束」との連絡が母親がお世話になっている施設からスマホに入りました。
一安心です。
月2回ほど近況についての連絡もスマホに入ります。
「前向きな倒れてかをを打ったこと、医師に診てもらって擦り傷位で問題なかったこと。」
今日は別途連絡が入り、最近夜に寝つきが悪くなった。医師と相談し薬を処方し対処、最近はぐっすり眠っているとのこと。」
95歳、昭和4年生まれ。
戦中、戦後を生き、
夫婦苦楽を共にしお店を切り盛りし、
寝たきりになった夫を介護し、そして看取り、
(昨年12月は17回忌はこちらでしました。)
残された時間を考えると、
もう思い残すことはないだろうと思う。
後は安らかに過ごしてほしいと思っています。
母親は7人姉妹の次女。母親の父親は(母方の祖父にあたります)墨田区向島で料理屋をやっていたそうです。太平洋戦争が激しくなり岩手県の宮古市疎開してきました。
疎開たので、昭和20年(1945)年3月10日の東京大空襲から逃れることができました。
記録を見ますと、空襲当日の言問橋は、浅草方面から対岸に逃げようとする人と、逆に向島・本所地区から対岸に逃げようとする人が橋の上でぶつかり合い大混雑、そこに落ちてきた焼夷弾によってたくさんの人がなくなったという話です。
東京で働いていたころに見に行ったことがあります。
今でも橋にはその名残が残っています。
なお、「言問」という名前は、在原業平の
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
の歌から由来しているそうです。
以上
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